昭和49年05月11日 朝の御理解
御理解 第56節
「日にちさえ経てば世間が広うなって行く。密かにして信心はせよ。」
「世間が広うなって行く。密かにして信心はせよ」悲しい事、又は苦しい事、そう云う様な日々の中であっても、段々日にちが経って行くと、その悲しい事も何時の間にか薄らいで来る。苦しい事も段々苦しく無くなって来る。まあ、そう云う感じと、人の噂も七十五日と云った事もありますね。例えば、何か世間に相済まんと言うか、まあ、お道の信心で言うたら、何かおかげを落として、例えば神様のお顔に泥を塗った、と云う様な事を良く申します様な事の場合にでもです。実はそうではないのだと。
だから人と云うが、人の口の端には心を使わずに、密かにひっそりと信心をして行きよる内には、世間が広うなって来ると言う風にも頂けるですね。私は今日お知らせ頂いたのが、皆さんはご承知でないでしょうが、権兵衛が種蒔きと云う踊りがあります。チャリ舞です。「権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくる、ズンベラ、ズンベラ」と云う。いわゆるどじょうすくいが流行る前にはやった、どじょうすくいの様な踊りなんです。
安来節がはやりだした。そしてあのどじょうすくいと云うのが、またチャリ舞で中々面白い踊りです。どっちも矢張りこうタオルを頬かむりをして、そしてザルを持って。片一方は種を蒔いて行くんですが、片一方はどじょうをすくうて行くと云う、二つの場面を頂くんです。それからもう一つは私昨日、東京から歌舞伎の本を、毎月ああして送って来るんですが、見せて頂いとりましたら、いろんな劇評の中に、同じ評をしておる人が、今度の中村家ですね。いわゆる中村勘三郎の阿呆公家ですね。
公家の形をして阿呆ではないけれども、にせ阿呆の役の事がもう最高に誉めて御座いました。それはその一番最後の所の愈々幕と云う場面で、今までああ云う型はなかったんですけれどもと言うて阿呆の姿形をしながら、持っておる檜扇ですね公家さんが持っておる扇。その扇をこう持ってふっと手を離したらパラパラパラと下へ落ちる所で拍子木が鳴り、幕が閉まるんだと。今まではこうやって扇を持って決まった所で終わる。だからあれは無造作に扇を離してパラパラっとこの扇の落ちた所の素晴らしかった事。
あれが自分での工夫でしたのであるならば、大変な素晴らしい、あれが今後の型になるだろうと云う事を言ってます。けれども迂闊ににして落としたのかも判らない。それは勘三郎に聞かなきゃ判らないけれども、自分の見た最後の勘三郎の幕切れのその場面の素晴らしかった弧とは、かつて見た事が無いと云う様に誉めて御座いました。もう一つは同じいわゆる名優であります、尾上梅幸です。梅幸が常盤御前をしておる。それである悲しみの所で、檜扇を使ってこう顔を隠す場面がある。
是はまた反対にもうこんな悪評が、例えばああ云う名優と言われる程しの人ですから、あんなに若い役者かなんかならええばってん、あれだけの名優をもう糞味噌に下ろして御座いました。もう目の荒いと云うたら、この位目の荒い常盤御前は初めて見た。と言った様な表現なんです。そしてあの時に檜扇で顔を隠す時にです。その扇が裏返しになっとったとか言うです。表が出らなきゃならんのに、裏返しで自分の顔を隠しておった。なんと目の荒い事かと言うて。
その同じ檜扇を使って同じ舞台で、同じ二人とも名優だけれども、片一方はそれが自分の演出であるか、工夫であるか、またはうかつにか知らんけども、最後の引幕の時の、いわゆる素晴らしい事が書いてある。片一方は勿論うかつでしょうね。扇で顔を隠さなければならん時に、出ておったのが、裏の方が出ておったと言うのです。権兵衛が種蒔きと言い、安来節の言うならば、どじょうすくいと言い、どっちもまあ同じ様な形ですわ。それを頂いておって。
今日私この五十六節を頂いて、是はどう云う風な継ながりがあるだろうかと思わせて頂くのです。先日九日の朝の御理解に、久留米の佐田さん一家のご信心を、まあ合楽では一つの手本だと。一家が勢を揃えてあれだけの信心が出来られて、ああしたお仕事の上にも、家庭の上にも、万事万端の上にも、おかげを受けておるのはもう当然の事だと。あれだけの信心をすればと言う。まあ言うなら、大変な誉め言葉に尽きる御理解でした。また事実そうなのですから、一緒にお参りをした方。
話を頂いた人達が、その日は幾人もこう云うお届けがありました。「本当に佐田さんところの話を聞いて、残念至極で御座います」と云う。自分方は家族勢を揃えない。もう本当にある人は、幾ら信心したっちゃもう私の方はだめでしょうと、さじを投げた様なお届けをした人がありました。あの話を聞いて是は私の方も一家中で信心さして頂きよりますが。もう一遍私共の言わば、勢を揃えては信心はしよるけれども、どこか焦点の間違っておるところがある。
是は家族中でもう一遍練り直さして頂いて、真似でもさせてもらわにゃいけんと言う様なお届けがねその日は幾つも御座いました。お届けしないにしてもそう云う色んな、あのお話を聞いてこう思われた方があるだろうとこう思うです。それはね、神様のご都合です。成程私は思うのですけれども、佐田さんの所のお家は例え廻りがあるお家でありましてもです。廻りを受けずにもう言うなら借金取りに来られずにこちらから何時も払いに行っておる様な感じで、お取り払いを頂いておられると云う感じですね。
あれはあの何時か隅田先生をお迎えしてから、お話を頂いた事がありますが。あの隅田先生の信心があれですね。いわゆる信心しよって病気するですか、と言った様なその表現の信心です。するはずがないっちゅう。信心しよって、なら廻りが深いちゅうたって、廻りが出て来て難儀をする事はない。こちらが一歩前進した、もう一歩進んだ信心をさせてもらう。特に還元と云う事を言われました。還元の本当に出来る。いわば積極的な苦しいからお参りするのでは無くてです。
もう有難いからそうお参りさせてもらわにゃおられないと云う生き方の信心には、もう廻りの出ようが無い。廻りがあっても、こちらの方からずうっと借金払いして催促される前に払うて行く様な傾向にある信心だと云う事。そのあの時分から佐田さん方の信心が、非常に、いわゆる隅田先生的ですね。隅田先生的なご信心に進まれて行かれたと云う事を私は感じております。皆、さあちっと雲行きが悪うなって来た。少し苦しくなって来た。それから、是はシャンとせにゃいかんぞと言うて。
シャンとした信心をすると云った様な感じの所へ、その点私は、改めて佐田さんのご信心をその様にまあー見ております。まあそれはそれとしてです。様々な言うならば、お互い信心なさっておられます。様々な信心のおかげの現れ方と云うのは、まあ言うなら千差万別であり、廻りの程度も違うし、いくら信心しても、いくら信心しても、形の上に現れて来ない。けれども心に愈々有難いものが育って行って、とうとうご自分の代には芽がでなかったけれども、子供さんの時代になったら。
芽が出た花が咲いたと云う例はいくらもあります。
やっぱり先代があれだけ信心してあったからねと。それは解りませんです、矢張り私共も分からんです。けどもそう言う様な場合にです。確かに言うならば頬かむりをして、ショウケを持ってと云う所は、権兵衛が種蒔きであろうが、どじょう救いであろうが変わらんけれどもです。確かに信心はしておる、種も蒔いとるけれどもです。権兵衛が種蒔きゃからすがほくじるで、言うならば無駄な骨折り損の様な信心をしておりはしないかと云う事を検討しなきゃいけませんねお互い。
一生懸命参りもしよる、御用もさせてもらいよる。けれどもですそれがそれだけ身に付きよらん。所々生えよるけれども、大部分の所はからすがほくじってしまいよる。まあ、からすと云う事は、何処のからすも黒さも変わらと言う様に、苦労と云う意味で言われますから。その苦労がです。本当に修行にならずに、ただ苦労で信心を続けておると言う様な事ではです。おかげにならん。本当のおかげにならん。言うなら、何時も情けない想いをしなきゃならん。
何時も私一人が貧乏くじを引いとる様な思い方をしなければならない。それは権兵衛が種蒔きの様な信心です。言うなら常盤御前が泣き顔を隠しておる。悲しい、けれども末広の扇は反対の方を向けちから隠しとる。是ではねおかげにならん。例えそれは自分の演出、自分の工夫ではなくてもです。例えば失敗であってもです。それが却って素晴らしい、言うならば怪我の功名と言う様な、おかげのお繰り合わせの頂けれる信心は、やはりどじょうすくいの信心からでなけりゃ生まれて来んです。
お互い両方ともザルを持っての言わば、チャリ舞いですけれども片一方はどじょうをすくうて行きよるから、片一方は種は蒔きよる。確かに信心の種は蒔きよる。けれども、それは全部からすがほぐじって行きよると言う様な事ではです。だから私は密かに信心はさせて頂くというその中にあってもです。今にこの自分の心の中に頂いておる心の喜びと云うか、心の言うなら花と云うか、是が徳に実らないはずはない。花にならないはずはない。実りにならないはずはない、と云うです。
そう云う、例えば心の中におかげを頂いて行くとするならです。例えば、大変おかげを受けた佐田さん辺りの話しを聞いた時に。もう愈々自分の信心も間違いがない。今に自分の家にも、ああいうおかげの頂ける時代が来るんだと言う様な、生き生きした心が生まれて来なければならない。悲しいとか、残念とかと言う様なものの残らない、私は信心を、言わば、密かにして信心をしておる時でも、そう云う信心が身に付いて行かなければいけないと思うです。
そう云う生き方には、例えそれは失敗であっても、それを成功の元、言うなら怪我であってもそれを功名の元になる様な、お繰り合わせを、神様が下さると私は思うです。一つの事を聞いて元気が出る。一人の人は却ってしおれる。一つの話しを聞いて。それを私は今日は、勘三郎の所作を誉めておる事と、それからどじょうすくいの方だと言う風に頂きました。密かになる程、信心しておる時ですから、派手な事もないけれども、只、細々ながら一生懸命信心を続けておる。
そう言う密かにして信心しておる時でも、密かに信心しておる時愈々自分の心の中に感ずる言うならば信念と言うか、力と云う物は愈々もりもりとして来ると言う様な生き方をです。私はどじょうすくいと、こう言うです。勘三郎の行き方だと。成程苦しい事は苦しい、悲しい事は悲しい、けれどもそれを例えば、扇は裏返しに持っとる。種は蒔きよるけれども、その悲しみやら、苦しみが種ばほじくってしまいよる。
と言った様な事を、権兵衛が種蒔きと、その梅幸の常盤御前の、まあそれは完全に失敗でしょうね。その扇を反対に持って顔を隠したと言う、そう言う生き方に、まあなぞらえて今日は聞いて頂きました。お互いの信心が内容を何時も種を蒔いておる。それがです。本当に種を蒔いて行きよれば喜びの芽が必ず出らんはずはないです。是が実らんはずはないと意う、生き生きとしたものが自分の心に感じられなければいけません。
お互い様々な所を通らせて頂きます。今が辛抱のしどころだろう。今が苦労の真ん中かも知れない。けれどもそう言う時には、やはり密かにしての信心であります。密かにして信心をしておる時に、果たして、勘三郎の方を取っておるか、梅幸の方を取っておるか。権兵衛が種蒔きの方を取っておるのか、どじょうすくいで行っておるのかと言う、自分達の信心内容をです。
検討して見て、おかげの受けられない言うならば、同じ苦労でも修行になっていないとするならです。それは何時までたっても苦労は苦労ですから、本当の良い芽は出ないと悟らせてもろうて、そこに一工夫も二工夫もいる時ではないでしょうか。今日は密かにして信心はしよる。形の上では密かにして信心しとるから、一つも判りません。皆同じなかなか地味な信心だけれども。
中々日々よい信心が出来るなとこう見えます。けれどもその内容がちがう。片一方は元気が出る。片一方は意気消沈すると言った様な在り方では、どちらを取るべきかと云う事をです。今日改めて密かに信心をして行くうちにです。世間が広うなって来るだけではなくて。もうその難儀苦労なら苦労が身に付いてしもうて、もうそれが当り前のごとなって世間が広うなったんじゃ詰らんです。
おかげの世界がいよいよ広がって行くおかげを頂く為に、何時も言うならば、私が何時も例をもって申しますように、お参りでも銀行にお金を預けに行くような気持ちで、お参りをして来る人と、いかにも銀行に金を借りに行く様な気持ちで参拝のおかげを頂いておる人がある。どこまでも銀行に金を預けに行く様な、生き生きした物が信心には求められる訳です。でなからなければ、徳にもならなければ、本当のおかげにもならないと言う風に思います。
どうぞ。